oodahigashisoのブログ

島根県大田市内浄土真宗本願寺派の3つの組(そ)【大田、石東、三瓶】42のお寺が合併して、「大田東組」が誕生しました。

2020(令和5)年度 大田東組 組講・門信徒 僧侶研修会


                           期日:2023年度3月5日(日)
                           場所:大田商工会議所3F
講 師:武田定光(じょうこう) 先生
    (元 親鸞仏教センター嘱託研究員・真宗大谷派因速寺住職)
テーマ:「なぜ? からはじまる歎異抄」


開会行事
・勤行「重誓偈」


・講師紹介
 著書「なぜ?から始まる歎異抄」は今日の研修のテキスト。
 江東区因速寺の住職として、毎月お寺で「御命日の集い」「ブッディサロン」など、様々な問題を抱える現代社会において精力的に砲座を開く。


・第2条 前編  往生って何?  

 生まれることが死の原因。自分の死について生きている人間は誰も知らない。他者の死を見て病気や怪我などが原因で死んでいく状況を客観的に見て自分の死をなんとなく類推しているに過ぎない。


・第2条 前編 念仏って何?

 生と死は一枚の紙の表裏。生という文字と死という文字を上下に一本の線でつないだ文字を私は「いのち」と読む。けがや病気などは死の条件に過ぎない。死の原因は生、つまり「生まれたこと」である。生と死が一枚の紙にくっついている。
 親鸞は念仏して浄土にいくのか地獄に行くのかは私は知らないと答えている。弟子は、安楽で安心な都合のよい浄土へ「念仏」で本当にいけるのかという「損得根性」で念仏をとらえている。浄土を待望するのではなく、往生とは行く先が地獄だろうと極楽だろうと、〈いま〉阿弥陀如来に任せられるかどうかの問題である。行く先は阿弥陀如来が決める。地獄を恐れない宗教の誕生。


第9条 信仰のマンネリズムとは?

 親鸞は「光明体験」は風化してくるもの、マンネリズムを引き起こす作用と知っていた。
他力は体験にしがみつき不動の精神状態をつくりだそうとするこころを揺さぶり不安にさせる。阿弥陀仏が私を揺さぶり目覚めよと叫んでいると受け止めることができる。
 「煩悩具足の凡夫」とは、阿弥陀仏からご存じで、自分自身でわかることではない。仏様の私への呼び声が煩悩具足の凡夫なのである。
 生から死へ移動する道は絶望道、修道論により煩悩を断ちきってさとりを開くのが成仏道、煩悩を断ちきる努力が煩悩から起こったものだと気づいた親鸞は、人間の思いでは「真実」を量ることができないので、あるがままの自己に帰り、量れ無い仏にお任せすること「南無阿弥陀仏」により往生道を歩む。


・後序(1) 救いの平等性とは?

 釈迦の跡をたどる細い一本道が縦型で初期仏教。浄土真宗の道は広く、360°で海とも表される広い道。横並びの広い道。その先には阿弥陀仏だけがある。自分が歩いた跡だけに道ができる。だから「善信の信心も、聖人の御信心もひとつ」である。


・後序(2) 二つのおおせ
 「親鸞一人」とは「あらゆる人々の中の特殊例としての一人」(特殊)、「あらゆる人びとを代表する一人」(普遍)である。「親鸞一人」が救われるということことは、あらゆる人びとが助かっていく普遍的な道理が開かれたという救済宣言である。
 仏典は「如是我聞」、私はこう聞きました、私はこう受け止めました、私はこれてすくわれましたという形式。受け止めた人間が経として執筆し編纂していくので増えていくのが道理。
 仏法は、時代や民族を超えて流れている普遍的な法則だから「私はこのように受け止めました」という人間が誕生しなければならない。お釈迦様が説かれたのだから絶対だど決めつけてはならない。


・後序(3) 親鸞を弾圧した〈常識〉
 「自力の心」が専修念仏を弾圧した。罪は旧仏教と通底する私の側にあった。実は、専修念仏を弾圧した悪人(私)こそが、「歎異抄」を読むべき人間。歎異抄が表層の意味で受け取られれば、いつでもこの書は弾圧を受ける可能性を孕んでいる。


・閉会 「恩徳賛」